感傷にもならないただの記録

さっき映画を見終えて、煙草を買いにローソンに行ったら、僕が六年間足繁く通っていたローソンが来る二月の末日で閉店するチラシが貼ってあった。僕は家の近くをよく歩いていた。六年という歳月は僕の家の周りの建物を次第次第に変えていった。近所の交差点、千本北大路の四つ辻にはコンビニが三件経っていた。セブンイレブン、ローソン、ローソンストア100、そのうちのセブンイレブンは消えて歯科医になった。船岡山の近くにあった廃幼稚園は、大きなスーパーマーケットになり、その影響で僕の家から二分と経たぬところにあった思い出深いMGマートが潰れた。建物は永遠ではない、時だけが永遠なのだ。時が変われば何もかもが変わる。時間だけがこの世を支配している。
 僕は京都に六年間住んだ。
 総じて見れば、
 一年目は寺社仏閣を巡った。
 二年目はアニメを見ていた。
 三年目は鬱状態に入り、睡眠薬を飲みだした。煙草も始めた。
 四年目に入り、漸く僕はちゃんと本を読みだした。卒論は書いたが留年した。
 五年目に入り僕は映画を見出した。
 六年目、僕はバイトを始めた。習慣になってた読書と映画鑑賞とともにそれを行なった。

 一年目はサークルを掛け持ちし、ファミレスでのバイトをやった。最初が肝心との思いが僕にはあった。サークルというのが文芸部と、もうひとつは古美術を扱うもので、僕が入部を決めたのもその理由あってのことだが、様々な寺巡りをした。合宿で奈良にも行ったことを覚えているが、僕は他人がいると眠れぬたちであったので吐き気と鹿しか覚えていない。ともあれ一年目はバイトに精を出しながら、寺巡りを主にした。
 二年目のことはあまり覚えていない。しかしなにかをやろうという気はあった。文芸部に初めて入部したとき新入生イベントで小説を書く機会があった。僕は今まで一度たりとも小説を書くことなどしていなかった。その昔中学生の頃にちょっと書き出してみて無謀だと思い挫折した。しかしそのイベントに僕は参加し、一応文章を書き連ね一定の量になったところで提出した。書いてる途中で愕然とした。何を描いていいのかはまるで分からなかった。僕は小説をそんなに熱心に読んできていなかったし、ましてや書くことなんてそれまで考えたこともなかったためだ。小説とは呼べない代物であったが、それはイベントの審査対象となり、結果は散々であった。当たり前だ。しかしそれから一年が経ったこの頃僕は思いつくままに何本かの話を、挫折しながら書き出した。何かをやろうという気持ちのはけ口のひとつに小説はなっていた。民俗学も興味を持ち、いくつか本を読んで発表したりしていたがフィールドワークが必要であることを知り、一気に興が醒めた。僕はひとと喋ることが極端に苦手だった。しかし僕は次第に生きる喜びを感じなくなり、それを与えてくれる人を探した。当たり前のことながら、ひとと喋るのが苦手な奴にそんな好都合な相手が見つかるわけはなかった。大学はつまらなかったし、朝起きるのも行くのも面倒だった。しかし親の叱責もあって仕方なく行っていた。アニメを見て時間を潰していた。
 三年目のことは記憶に新しい。それは僕が二十歳から二十一歳に移る年頃で、六年間で最も僕自身の変革を推し進めた年だった。二十歳で迎えた春、僕は死にたかった。そこで僕はある決心をした。もう何を言われようが構いやしない。誰にも好かれなくたっていい。どうせこのままひとりきりで野垂れ死ぬ運命だ。だから、今まで絶対やるなと言われていた煙草を吸う決心をしたのだ。僕は道に落ちてたセブンスターを吸い、噎せた。初めて吸ったときそれは完全な煙の塊にしか思えなかった。僕はこの頃二年の中ごろには発症していたものが悪化し、完全な鬱状態になっていた。ほとんど引きこもりのような状態だった。僕は求めるがままに睡眠薬やスマートドラッグを海外から個人輸入した。そして文章を書いた。一カ月に一本のペースで小説を書いた。生きるのであれば、練習を積まねばならないと僕は思った。その練習の計画は成功した。僕はおそらく11作程度を書いた。すべて練習のつもりではあったがそれを褒めてくれる人たちがいて、それは僅かながらにも僕に生きる勇気を与えてくれていた。
 四年目には人脈も増えたこともあり、僕は次第に鬱状態を薄めさせることができた。それは親密に僕に関わってくれる人があってのことであり、また僕が世間には無視されようと己の道を歩んでいこうと決めていたからでもあったと思う。僕は髪を金髪に染めた。一度茶髪に染め、次には緑のアッシュ、じきにそれは色が落ちて金色になった。それは僕を自由な気分にさせてくれた。僕は卒論に向けて哲学書を読むのもそうだが、本格的に読書を始めたのもこの頃だったと記憶している。僕は『ノルウェイの森』で言われる『時の洗礼を受けたもの』を意識し出した。それによって僕は昔の海外文庫などを読むことにした。卒論はできうる限りちゃんと書いたはずだが、落第した。それは三年の前半の成績がゼロ単位であったことに起因するかもしれないし、一年目にノイローゼになりながらも親の言うことに従ってバイトに行ってたからかもしれない。まあ哲学がそれほど得意でない僕の卒論なんてたかが知れてるものではあるが。
 五年目には毎日体調不良であった。原因は多く考えられる。喫煙、偏った食生活、昼夜逆転の生活、栄養失調、運動不足……。僕は痩せていた。食べ物を食べるのは面倒だという意識があった。この頃から僕は習慣として映画を見始めた。残された単位はわずかであったから猶予の時間があったのだ。僕はひとみしりで図書館ですら人の視線が気になるというありさまであったので、行く宛はあまりなかった。授業と授業の合間には人の多いキャンパスにいることができず近くの喫煙可能な喫茶店ココットによくいった。たしかこの頃は退屈な時間を埋めるべく自主ゼミも企画して実行した。僕に知り合いは少なかったが、
幾人かの親切な人のおかげでそれは隔週で行なうことが出来た。この年僕は、初めて公募を意識して書くようになった。今までは練習でしかなかったものが実験になった。そういえば授業時間の合間、学校にいるのが嫌過ぎて帰って映画を見てたこともあった。僕は本を読み、映画を見た。数少ない貴重な友人もできたが、あとになって別れることになった。おそらくは僕の不器用と、出無精と、不作法が原因だったのだろう。一方的な別れを切りだされ傷つきもしたが、それは仕方のないものだったのだと今になっては思う。
 六年目、僕は仕送りがとまることになってバイトを始めた。今もしている。今はやれることをやれるところまでやろうという気概がある。バイトは面倒だが、しかし続けられている。環境が良いからだろう。本を読み、映画を見、ときには作品の構想を練り、バイトをこなす、それがいまのすべてだ。
 なぜこんなことを書こうかと思ったのかは定かでない。原因はローソンが閉まったことでもう京都に留まる意味は失われたと感じたからかもしれない。あるいは卵焼きが上手く作れなかったからかも。