映画「25時」を見た。

一言で言えば、お前のアメリカを見つけろって話だよね。

この映画ってまずは、第二次世界大戦が終わり冷戦も収束した時代、グローバリズムが浸透して国の境界もなくなって、みんな平等でそれぞれ生きてる時代において、その弊害、つまり自分の国のアイデンティティも喪うことになって、誰も、そう幼馴染であれ恋人であれ自分にもっとも近い存在でさえも、疑わざるを得ない事態を描いてると取ることができる。

で、エドワード・ノートン扮する主人公は鏡に映る「Fuck you」を見て、「俺もお前もこの街も街の奴らもクソったれだ」というわけ。主人公が非難の対象としてるのは、街の住人と化しているパキスタン人もいれば、ユダヤ人もいれば、ロシア人もいれば、韓国人もいれば、イタリア人もいれば、黒人のブラザーもいる。これってつまり主人公は、多民族国家としてすっかり均されたアメリカを憎んでるわけなんだよね。じゃあアメリカって何って話で、ここで「アメリカン・ヒストリーX」(エドワードノートン主演)と繋がってくるのがおもしろいんだけど、結局アメリカって移民の国なわけですよ。なにもない広大な地平を開拓してきた時代があるわけじゃないですか。だから終盤、主人公の親父が「人は皆、死ぬ前に一度は砂漠を見るべきだ」っていうわけなんですよ、「砂漠に行けば、静寂と平和が得られ、神を見出せる」とも。

親父が「砂漠では神を見出せる」ってのは裏を返せば現代のニューヨークでは「神が見出せない」ってことでもあるんだけど、さっきから書いている「アメリカってそもそもなんだっけ」っていうことへの隠喩の次元で捉えればね、なんか腑に落ちるところがあるんですよね。親父の言ってた「あるはずだった幸福な未来」ってのは「逃げ延びた者たちが街をつくる」っていうことで、これはね要するに現代のアイデンティティなき時代においても、その空虚さに絡め取られて疑心暗鬼になるのではなく、逃げ延びて街をつくれ、お前のアメリカを開拓しろってことなんですよ。それがもちろん前景に出てきてるわけではないんだけど、映像全体に通底しているテーマであって、それこそこの映画が僕たちの胸を打つひとつの理由なのかなって思ったわけなんです。



・filmarksにも書いたレビューです。「25時」見て、なんかもやっとしてて、この映画のテーマってなんだろうって考えて、なんとなくこれかなって思えたので書きました。