僕の罪とは

僕は幸福を決めなくちゃいけない。

幸福は何か、ということを言わなくちゃいけない。

それは幸福になるためだ。

幸せな日々を安心して過ごすためだ。

それこそがずっと僕の課題であり、僕の原罪に違いない。


もし幸せが何かが分かったら、僕はそれを追い続けていけばいい。

それに向かって行動して達成して幸せになって、楽しくすればいい。

だけど、それはなんだ? 僕の好きな事とはなんだ?

それが分からない限り、この世は宙づりな地獄に変わりない。

気まぐれに幸せを付与されて、その原因が何か分からないままに消費してもう手に入らない虚無感に浸る。

「幸せは何かを問い続けるのが人生だ」という人がいる。

じゃあ死ぬまでこのままなのか。このままずっと地獄なんだろうか。

それはとっても辛い。

周りの人は楽しそうに見える時がある。

あの人たちは幸せを知っているのだろうか。

単純に言うと、幸せといった大きなことを言わなくても、趣味とか好きなことを見つけられているのかという問題に行きつくわけで、一般的な人々には見つけてる人が多いんだと思う。

僕も自分に合った楽しいことを見つけようとした。

でもそんなのはやっぱり瞬間的な享楽に過ぎない。

恒常性のない瞬間的な楽しみ。

それも慣れによって後には残らない。残るのはいつまでも慣れない虚無感だけである。

あの人は「好きなことを見つける努力はしたのか?」というだろうか。

じゃあ聞くが、好きなことを見つけるのにそんなに苦労しなければならないのか?

癒しを求めるのにも苦痛が伴うのか?

それってとっても苦しいなって。


大体、趣味とか持ってる人たちはそんなに死にたくなったりやけ酒を煽ったりしながら苦労して趣味を見つけてるのか。

全く馬鹿な話だ。

たまに趣味はないが、友達といるのが楽しいという人がいる。

僕にもそういうことはある。

コミュニケーションに快楽を感じる。

でもこれだって危険だ。

僕は出来ることならコミュニケーションに楽しみを見出したくはないし、楽しいと思いたくもない。

それは辛いことだ。コミュニケーション至上主義は辛いし、未来性がない。

まず、コミュニケーションが楽しくて期待してしまっても他人との意識との差に絶望する。自分は好きなのに、相手はそう思っていない。相手の機微がやけに目につく。相手の行為が逐一私を嫌っていることを示唆しているように見える。

それか無関心。

コミュニケーションに楽しみを見出してしまうと相手が自分に無関心なのも悲しくなる。好きになって欲しくなる。そうなってしまえばもうだめだ。無限に相手を拘束したくなる。自分を他人に移したくなる。

たとえば、相手が自分を嫌っていてても、喋りたいことだけ喋って自分のやりたいようにやって満足するような自己満足で自己が満足すればいいのだが。そういう人は多くいる。ああいう人たちは悲しみにやられてしまったのだろう。悲しみの前に自分を捻じることによって自己を保ったのだ。その悲しみは何たるや。

僕にそんな力はない。踏ん切りもつかない。それはつまり自分を壊すことに他ならないのだから。自分の悲しみを癒すためだけに相手を傷つけるような人間にはなりたいと思えない。

それに未来性がないというのは、将来色んな人と出会えば僕よりもコミュニケーションのうまい人たちに出遭うだろう。その時の話。未来において不安が広がるという不安のことだ。

劣等感が生まれるんだ。

コミュニケーション能力は本来的にはすぐに上達するものでもないし(上辺だけなら分からないが)、小さいころからの経験に請け負うところが大きい。

もちろん僕は今も今までもコミュニケーションが特別上手いと思ったことはない。それに上辺のコミュニケーションは今まで散々僕の心を抉ってきた。自分の好きなものを嫌いといい、嫌いなものも残さず食べる。それは幸せではない。自分を売ることに他ならない。それに見合うものも掴み損ねてきた。

だからダメなんだ。


そんなことしてもダメなんだ。

コミュニケーションに幸福があるというのは一例だ。

他にどこにある?

経験を積んで絶望を幾度も乗り越えて辿り着く先?

そんな重いものなのか?

日常には幸せが転がっているにおいがする。

道行く人はそれを僕の前で手にとって持ち帰っていく。

僕の分はどこに落ちているだろうと思っても見つからない。

いつまでたっても見つからない。

僕の分は。僕の幸せはどこ。


僕の罪はどこにあるのですか。