寒いねっ☆

――ある憂鬱な少女――


私は会話というのがよく分かりません。

クラスメイトの人たちとお話ししたい。話したいんです。楽しくおしゃべりしたいと思っています。

今朝起こったこと、昨日忘れたこと、明日しなくちゃいけないこと、なんでもいいからお話したいんです。

そうなんですけれど。

けれど。

実際にはなかなか会話ができません。

話そうとした瞬間にそれまで楽しみにしていた気持ちが萎み、それに何の価値もないような気になってしまうのです。

そして帰って自分の部屋の天井を眺めて寝っ転がっているとふとまた誰かにお話がしたくなってくる。 

なぜなんでしょう。どうしてなんでしょう。

私は会話というものがよく分かりません。

今はただ苦しいだけです。



私は誰かとお話しすることに何を求めているのでしょう。

一緒の時を過ごすことでしょうか。時間の共有、そういうことでしょうか。

でも、私だってお話したくない人がいないわけではありません。

それは、私とあまりにも価値観の違う人、「常識の部分」が違い過ぎる人、その違いが大きければそれほどあまり話したい欲求が出てきません。

話が噛み合わなくて、私もその人もストレスが溜まっていくだけだと思います。だから。

じゃあ私は価値観の合う人と時間の共有、知識の交流をしたいということになるんでしょうか。

知識の交流って言うのは、自分の知らないことについてです。

全く新しい知識、それは社会的な、根本的な学術的な話題、そうではなくても知識相手の個人的な問題。それを会話では交わし合います。

相手のそれを私は知りたいのでしょうか。

きっと単純にそうではなくて、この相手だから、というのもあるんだと思います。

さっきの話。相手の個別性。自分の価値観より遠すぎない人(ある意味では違う方がいいということもあるかもしれませんが)。

その個別な相手と情報(知識)のキャッチボールをして時を過ごす。

それが私はしたいのでしょうか。

間違ってはいないと思います。

ただ、それに全くストレスの負荷がかからないかというとそこも疑問なのです。



人にはテンションというものがあって、会話をしたいときと会話をしたくないテンションがあるんだと思います。

折角、個別の相手とお話をしようと思っても、もし相手がその時、会話したくない時であったら、私はどうしたらいいのでしょう。

勿論、優しいその人のことですから、私に気遣って内面を押し殺し、気丈に振舞ってくれることでしょう。

私も得意げになって話してしまい、私の口から言葉が出る度に相手に負荷をかけていってしまうのです。気付かぬうちに。ずしんずしんと。

それは私に非があるんでしょうか。私はその人の内面を見抜く責任があるのでしょうか。

むしろ、内面を見抜いて、相手が隠そうとしていることを掘り起こす必要なんてあるのでしょうか。

しかし。

それでは、相手が負荷を脱する可能性は一つ、つまり。

――私が話しかけなければよかった、ということになるんではないでしょうか。

私には生憎まだ他人の心が手に取るように分かる能力はついていません。

だから、唯一の安全策として、

私は誰にも話しかけてはいけないんでしょうか。

私のあの人、双方が楽しめるようなことはできないんでしょうか。

どうしたらいいんでしょうか。



私は会話というものがよく分かりません。

今はとても息苦しくて切なさでいっぱいです。