「〈共‐個〉間の感じやすさ」(「たまこまーけっと」)

★「たまこまーけっと」レビューです。
あにこれβにも載せています。(http://www.anikore.jp/review/919490/
たまこまーけっと公式サイト http://tamakomarket.com/


<共‐個>間の感じやすさ

たまこまーけっと前近代的な共同体の話である。すなわち、個人同士が分断され、相互の直接的なコミュニケーションの比重が匿名に移される、都市的な環境における話ではない。たまこまーけっとでは「商店街」によって共感的、あるいは未分的共同体の機能が維持されている。
したがって主人公のたまこは、個人を軸にしたミクロな関係よりも共同体を軸にしたマクロな関係に重きをおいて思考する。感じやすさにおいて、この区切りが明確に区切られるのが見て取れるだろう。本作において、彼女は自分のコンプレックス、それを投射した世界、あるいは個人同士の友情関係、ひいては自身の恋愛についてまでも、ほとんど熟考していない。それは絶対的な共同の問題のみに関係し、そこから物事を捉えているためである。
ストーリーの序盤、朝霧史織との関係で思い悩む時も、問題の焦点となるのはたまこ自身と朝霧の関係というよりも、朝霧という他者と自らにおける共同体(仲間)との距離感である。そしてその解決も当然のように、商店街といううごめきに朝霧が飲み込まれるという事態によって、陽の目を見ることになる。
また主題であるデラとの関係も、共同体と異他的な他者という構図によって明らかにされる。デラやチョイというのもたまこにとっては、個人の一体一関係で、相互に影響され、その性質が変化していくミクロな視点に限定されたダイナミックなものというよりは、共同体と他者という、より大きな構図で捉えられることになる。たまこにとって最も大きな関心事は自身の恋愛や将来像ではなく、自らの属する商店街の生命なのである。そのことは物語の最終に、商店街のシャッターが閉まっていることに象徴される。しかし、その場面には他の要素も含意されており、それはたまこ自身に関わる重要なファクターだ。それはおそらく事件とも呼ばれるものであり、それに目を覆うことで、たまこの視界が共同体に限定されていることが暗示されている。それはもうひとつの視界、あるいは世界へのひらきを指し示しているように思われる。しかしいずれにせよ本作では、共同体の位相からたまこが揺らぐことはなく、感じやすさの力点も常にと言っていいほどそこに存在する。観賞者は、そこから都市的な「埋もれ」の実存ではない、相互共感的な社会への憧憬を見出すことだろう。

以上、本作を共同体と個人の関係について論じてきたが、アニメ史的に言えば、これはけいおんらきすた系統に連なる「日常系アニメ」の拡張として捉えることもできるだろう。いわゆる日常系は、数人の仲間同士の交流を描き、そこから世界を見ることを成し遂げたが、本作でその役割は商店街にまで拡張されている。言うなれば、前近代的であり、近代の拡張でもあることになる。たまこまーけっとが新鮮であり、かつ親しみやすい理由はこのことにも挙げられるだろう。