短杯2014『友』に参加しました。

短杯という短歌のチーム戦で得票を争うという企画があったので、僕も急遽周りの方に声をかけて、「憂性能」というチーム名を冠して参加することにしました。〆切1日前に呼びかけたにも関わらず、快く引き受けてくださった皆さん、本当にありがとうございました。

短杯2014、歌題『友』閉会式
http://renga57577.wkeya.com/summer/tc14final.html

結果はチームとしては11/22位、個人では31/124位と、飛び込みで参加したわりには嬉しい結果となりました。短歌は元々個人でするもの、独自の世界を表して他のと見比べるもの、すなわち理解不可能性を前提した上で感想を述べたりするしかない消極的な集団性しか有していないものと思っていましたので、こういった形で交流ができたのはある種予想外でもあり、その分楽しかったです。

さて僭越ながら、折角ですので、僕も少なくともチーム内の短歌に関しては短い評でも書いておこうかと思います。


・セーラーの尾鰭がゆらり揺れる道 またねきっとまた明日ね(やよえそら)

セーラーを尾鰭と譬えたこの首ですが、一見冗長と思われる「ゆらり揺れる道」が、その後の6・6の破調に重なることで全体を雰囲気を不安定なまま保存することになっています。前半の「ゆらり」「揺れる」同様、後半も「またね」「きっとまた明日ね」と同じような語が並び、これは一見退屈な表現となりがちですが、それはこのテーマ「不安定な日常をそれでも肯定する」ことの中に組み込まれることで、それを補強する意義を持ち、光りを孕むことになるのです。それがこの短歌のシンプルに見えながらも、不思議な奥行きを感じさせる所以でしょう。


・擬態するだけが友ではないのだと古着を売った姉の手に風(工藤瑞樹)

これは僕のです。自分ではいいと思っていますが、やよさんやなづ菜さんのと比べると、やはり説明しすぎ、男性的な印象がぬぐえません。僕も、感性をそのまま表現したものも自由につくれるようにしたいですね。


・ものすごい夕焼けを見た ぼくたちは素足のままで線路を歩いた(北なづ菜)

「ものすごい」「ぼくたちは」というかなり感性的なタームが用いられるゆえに、情景が思い浮かべやすい首だと思います。しかしあまりに単純なため、僕だったら「これでいいのか?」と思い、なかなか詠もうとしない気がします。しかしこういうのが共感を生みやすいというのも事実。そのバランス感覚を僕はなづ菜さんから学んでいきたいと思います。


・約数を足してあなたに憧れた友愛数の片割れになる(勿子)

友愛数(ゆうあいすう)とは「異なる2つの自然数の組で、自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数をいう。親和数とも呼ばれる」(Wikipedia参照)とのこと。これは一見して分かりにくいですが、友愛数の概念を併せて考えれば、なかなかいい首だと思います。すなわち、約数を経験として友愛数を属性としてみれば、「憧れる人がいて、近づくにはどうすればいいのか分からないから、その人がやってきたこと(あるいは、やっていること)を真似する」といった現実的な意味に変換することができます。そうして「片割れ」になったと思い込んでいる。しかしこのあと、主体である彼(彼女)はどうするのでしょう。憧れと自己の同一視は、約数(経験)を足すのみでは完全には為し得ず、結局妄想の段階に留まっていて、「あなた」との距離は絶対的に離れたままです。彼(彼女)がそれに気づいたとき、その事実を受け入れて「あなた」の代理を探して現実の雑踏の中へ踏み込んでいくのか、それとも事実を直視できずに絶望し、全てを諦めの底に沈めてしまうのでしょうか。この首は厭世的な印象を与える一方で、そういった思春期が社会に相対するときの瑞々しさをも兼ね備えていると思います。


・午後ぬるく皆ぬけてゆくさよならと わが血を炭酸にする眠りたちよ(鯖ディーラー)

これは僕は非常に好きでした。「午後にさよならと、皆がぬるくぬけてゆく」から「眠りたちが、わが血を炭酸にする」は自然な移行です。周囲に嫌悪を向けているわけでもなく嫌悪されているわけでもない、しかし周囲とはなぜか溶け込めない情感をかなり綺麗に詠っています。「わが血を炭酸にする」とは、しっかり束ねられるはずの自己が、綿毛がたんぽぽを離れていくようにするするとほどけていくことを思わせます。そうさせる「眠りたち」とは「皆がさよならとぬけてゆく」ことに起因します。つまりこの首を僕は、自己を置いてきぼりにして皆がなぜか飛び立ってゆき、そのどうしようもなさは「眠りたち」という感覚となっておとない、それしか感じられず、手のひらには最初からそうだったかのように周囲から隔絶された「眠りたち」が渦巻いているのみで、自己はそれに身を任せ、確固たるべきであった自分をある種の諦めと共に(いやそこには諦めすらもない端的な空虚があるだけなのかもしれません)泡のように空気中に放散させていく、といった情景をもって読んだのです。


さて、他の参加者の短歌で僕がすきだったものもいくつかピックアップしておこうと思います。

・まみちゃんに水をかけたいまみちゃんのお墓に水をかけてあげたい(ひもの)

・図書室の机の下でふれあったつまさき夏はひそやかにくる(こはぎ)

・セックスをしないだけだねもう君はほとんど夏の全部を飲んだ(恋をしている)

・限りなく近くて遠い場所としてあなたのための陽だまりになる(ぷちぷちおもち研究会)

・カテゴリーなんていらない僕らにはふたりがいればそれだけでいい(薫智大介)

・「逃げようと思う」子を抱く友が泣く 切り取り線は目には見えない(綿菓子)

・腹心の友ができると信じてた部活をさぼった十四の夏(鈴木京子)


短歌を詠んでいくのは、徐々に自分の領域を狭めていく営為だと思います。その中で、こういった自らの境界を取っ払うような経験ができるのはいいですね。また参加してみたいです。



noteにも短歌を載せています https://note.mu/yozora/n/n4d5e037fbca8